記事内容が非常に同意する部分が多く、私も少し考えてみたいと思いました。
まず常に少年スポーツで話題になる「勝利至上主義」ですが、この話になると必ず「勝ちを目指して何が悪い?」と反論する人がいます。
非常に根本的な話ですが、試合をする以上、勝利を目指すのは当然です。この意味は言葉の通り、「“勝利”より上に至るものは無い」という考え方で、勝つためには子供の成長やコンディショニング、道理的な考えやスポーツマンシップも考えず、ただ勝つために何でもすることがいけないという意味になります。
何より試合をしている以上、子供にしろ大人にしろ選手は勝ちたいと思って試合をしているはずです。ただ勝ちを目指す上で大切なものを蔑ろにしてはいけないということです。
少年スポーツ、地域スポーツには「健全育成」という目的があります。子供たちにスポーツ経験の中で何を伝えたいのか、大人に成長する過程でどんな経験をさせるべきなのか、チームがよく考えて運営されるべきです。
例えば、同記事内では勝利至上主義の典型例の一つとして、選手の酷使が挙げられています。
その根本はチーム事情から参加する大会数が非常に多いことや指導者が勝つために技術力のある選手を使いたがる…など、多岐に及びます。それをより深く見ると、多くの選手がいてもチャンスを与えるのは技術力のある選手ばかりで小柄な選手はバントばかりとかゴロという内容のいいアウトを求めるなど成長の機会を妨げられるケース、また不慣れな選手は四球を誘いたいあまりに「待て」のサインばかり出すなどといった極端なケースも見たことがあります。
入団した選手皆にやりがいを持たせるために指導者は、どんな選手にも平等の指導とチャンスを与えないといけません。その機会を与えても良いレベルまで技術力を上げる指導法を日ごろから指導者自身が学ばなければなりません。
ところが、ほとんどの指導者は自分自身が経験した野球という非常に狭い知識の中で指導をします。そして、それに必要以上のプライドを持っています。だから自分の価値観に合う選手を優遇したり、指導者同士でもめたり、自分の好きなようにできる指導者で周りを固めたり、思うようにいかなければ体罰(走らせるなどの罰も含む)を与えて憂さ晴らしする指導者も多いんです。
また保護者などもどうでしょうか?野球のファンはやたらとファンというより評論家ぶる人が多いです。監督の采配の結果が悪い方に向けば、「あの時はこうすべき」とか「打順が違う」とか聞こえてくるのは結果が起きてからの文句が本当に多いです。
それで結局被害にあうのは選手です。自分たちの思いは伝える機会はなく、指導者の言いなりになることを優先せざるを得ない環境下でスポーツしているケースが多いと思います。だから、怖い指導者や偉い立場の指導者の前とそれ以外では態度が激変する選手が育つ傾向にあります。立場が上の指導者には走り寄ってあいさつに行くが、それ以外は見て見ぬふりとか普通にあります。私は監督という立場も手伝いのようなコーチも立場も経験してるから、あからさまにそういう現場を目撃しました。私が監督していた時はそういう点は厳しくしましたが…。
スポーツ障害にも触れられていますが、それも本当に選手の酷使だけの問題でしょうか?
例えば、ボールの投げ方を力学的に正しく教えられる指導者ってどれだけいるのでしょうか?バイオメカニクスに基づくバットスィングを指導できる人はどれだけいるのでしょうか?
「上からたたけ」、「腕を上から振って投げろ」、実際起こってないような動きを指導され、またそれを命令され強制させられてる選手がどれだけいるでしょう。
例えばそれは指導力云々ではなく、何より選手とコミュニケーションすればいいだけなんです。アドバイスをした後に選手がどう感じたか?しっくりきているか?選手にレスポンスを与える機会を与えているでしょうか?
私の経験上、助言が命令になっている指導者がほとんどです。それでいて指導者ごとにアドバイス内容が違う。選手に取捨選択の自由が与えられていたら、自分が良いと感じたアドバイスを選択し実践で試してみればいいんですが、何かと命令で言われるから選手は服従するしかないため混乱するんですよ。
スポーツの主体は指導者ではなく、選手です。相手が子どもだから大人が自由気ままに指導(というより指示命令)して楽しむことがスポーツではありません。
「子供のため…」という大人個々の価値観を訴えあうのではなく、選手の声も聞ける(聞く耳を持つという事)指導環境が必要なのではないでしょうか?そうやって選手に主体性を持つ機会を増やせば、選手の感性も育ちます。
結局、毎度毎度出てくるこういったスポーツ人口の問題は、大人に問題があり責任があるんです。だからこそ、早く選手の自主性、主体性が育つスポーツ環境を作りたいものです。
最後にタバコを吸うとか論外です。話になりません。
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